hanihostamp penguinblog

のほほん、ペンギンライフ。

お金で買えないおもてなし。

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大人になってから、友達との遊び方は相手にもよるけれど、たいていパターン化してくるところがある。

おおまかに言って、多いのはランチと散歩、または散歩と夕食、という感じ。

散歩の中には、雑貨店めぐりがあったり、美術館へ寄ることもあるし、目的地まで、いつもは選ばない道をあえて使う路地裏散歩もあるような…。いずれにせよ、食事だけして別れることも増えては来たけれど、例え10分程度でも、誰かとぶらぶら散歩するのは楽しい。

などと思っていたけれど、この前、久しぶりにドライブに連れて行ってもらった。目的地へ送ってもらう以外に、ドライブを楽しむために山道を走るなんていうのは、ひょっとすると十年以上ぶりかもしれない。

年上の友達で、年齢だけでなく住まいも生活環境も、もともと随分自分とは違う人だけれど、それでも今までは電車で出かけて待ち合わせ、徒歩かタクシーで移動する程度だったから、愛車に乗せてもらうというのは十数年の付き合いの中ではじめてのことで、少し緊張した。どんなところへ連れて行ってもらえるのか、ワクワクもあった。

連れて行かれたレストランは、車でなければたどり着けないような山道の先の湖畔にあった。そしてガラス窓からは絶景が見えたし、ゆったり会話をしつつ素晴らしいお料理をご馳走になった。そこですべての楽しさとおいしさを堪能してしまって、その日のイベントがすべて終了したような気分になるほどだった。

店を出て、車に乗る時に、友人から「これからどうする?温泉街へ行ってみるか、さらに山の方をドライブするか、それとも来た道を引き返してウチへ来る?」と聞かれたわたしは、咄嗟に選べず目が泳いでしまった。日常とはまるで違う場所で、久しぶりのしゃれたドライブにぼーっとして、自分がこの後何をしたいか、まるで思いつかず、かろうじて、友人の新居へ訪問してみたい、という希望が口から出たというか…

来た道を帰る、というパターンは、わたしは本来好きではなく、同じ道を戻るより断然別の道をたどって戻る方が発見があるから好きで、要するに引き返すのが嫌いなのに。

それなのに、来た道を戻って友人の家へ行くという選択をしてしまって、せっかくのドライブなのにもったいなかったかな、と…

けれど、ドライブウェイでの「来た道を帰る」は、まったく別の風景を目にすることでもあると、車窓から瑞々しい緑のアーチが風に揺れて木漏れ日を通す光景を見て思い知った。そうかそうか、道を戻るのは、来た道とは左右が反対の風景というか、木の裏側を見ることになるというか、時間帯が違えば緑の濃さも変わって見えるし、同じ道でも行きと帰りはまるで違うんだなと。

そして、ある所にさしかかると、友人がふいに脇道へ車を進めた。

「少し寄り道しましょ」と、彼女は細く蛇行する道へスピードをゆるめ入って行った。

道はどんどん狭くなり、左右の木が迫り薄暗くなった未舗装の道幅の狭い山道の上り切ったところで車を停め、「あなた、今日はどんな靴を履いて来た?ああ、長靴なら大丈夫」と言って、友人は車を降りるよう促した。

「これからとっておきの、天空の秘密の場所へご案内します」

彼女は慣れた様子で、金網の扉から脇の山道をさっさと上っていった。

わたしも後に続いて急な山道の、まばらに置かれた石段や凹みをたどって上を目指した。

「さぁ、この先よ。ほら見て、わたし、夫とよくここで、おにぎり持って来て過ごすの」と彼女が指差した先に、昔日本画の授業で目にした与謝野蕪村の絵のような、そこよりさらに高い向かいの山の中腹に寺院の伽藍が並び、はるか下にミニチュアのような町並みが曇り空の下でかすんで見えるという、なんとも古風な風景がひろがっていた。ひろがる、とはいってもパノラマではなく、山頂には巨岩がいくつもあり、かつての磐座信仰を彷彿させる神秘さをたたえていた。今わたしの暮らす町には外国人観光客があふれているというのに、その山頂には観光客どころか地元の人さえ立ち寄らないような異界っぽさがあった。なんていうのか、2001年宇宙の旅の冒頭のシーンで出て来そうな…

もっと色々と眺めていたいし、その場所の由緒も知りたいし、さらに先まで進んでいって地形を確かめたかったかったけれど、車を道の途中に停めて来ただけに「一瞬で降りてきましょう」と最初に決めていたので、そそくさとわたしたちはその場を去ることになった。

おそらくもう二度とわたしはその場所にたどり着けない気がするけれども、わたしと同様に引っ越しの多い人生の彼女たち夫妻が、おそらく数年先の次の引っ越しまではその秘密の場所で時おりのんびりと時間を過ごすだろう光景は、わたしの中で勝手に日本昔ばなしのような、というか蕪村タッチで何度も再生されて、すっかり心に残ってしまった。

 

その日、家に帰り着いてからも、とっておきの場所へ案内してもらったことへの静かな感動のようなものが、ほのほのと自分の心に残り続けた。

今また引っ越しのために本を段ボールにしまったので確認できないけれど、

たしか高野文子さんの『棒がいっぽん』という作品の、巻頭の漫画(「美しきまち」だったか)に、工場の近くの社宅に暮らす夫婦が休日に、近所の山(丘?)に上ってお昼を食べる、自分たちが暮らす街を眺めながらのんびり過ごす、そんな作品があったのを思い出し、また、近藤ようこさんの『遠くにありて』では東京で暮らしたい気持ちを抱えたまま、刺激の少ない故郷で教員を続けるのが不本意でならない主人公が、やがて地元で伴侶を見つけ、東京へは戻らず地元で暮らそうと決意して下宿先を去るときに、大家さんに駅まで見送られる途中で、寄り道をして大家さんの「とっておきの場所」へ案内されるシーンでも、自分の暮らす町を見下ろせる高い所へと上る様子が描かれていたのを見返したくなった。

そうなんだ。人にはとっておきの場所があるものなんだよな。

悲しい時やさびしいとき、気分を変えたい時にそこを訪れて深呼吸するだけでなんだか大丈夫だと思えるような場所が。そして、他の誰かが弱っているのを見たとき、人は、そこへ案内して励まそうと思い立つのかもしれない。

確かに、今少し疲れていて視野が狭くなっていた今のわたしにとって、一瞬の天空の光景は、時空を超えた旅をしたような、なんだか壮大な出来事だった。

そういえば、わたしも、箱根湯本の山道を温泉宿への送迎バスで通る時に、遠い記憶の中の、大切な風景を思い出すデジャヴのようなことが何度かあったし、湯河原の道でも同じような感覚があったし、他にも鳥取と島根でも、なんだか懐かしいような悲しいような、そんな光景に出会ったことがある。でも、漠然としていてそれらが「とっておき」かどうか自信がないのだけれど。

わたしがこんなにも散歩が好きなのは、ひょっとして、とっておきの場所をずっとずっと無意識に探しているんだろうか。

今度、彼女がわたしの暮らす町にたずねて来るときには、今わたしが気に入っている場所へ案内したいと思う。でもそれは、とっておきじゃなくて、駅のホームのラックにあったフリーペーパーで紹介されていて知った、観光客も結構訪れるお寺なのだけれども。

そんなこんなで、未知との遭遇に感動の巻。

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