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のほほん、ペンギンライフ。

心は誰のものか。

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人が、他のひとに呪いの言葉をかけている場面を見ました。

ひと月程前。大通り沿いの商店街を歩いていた昼下がりのことです。

ある店の主人が、その場を立ち去ろうとしている二人の男性の背中に向かって酷い言葉を吐いていました。

言い放つ、というよりは、隣にいたひとに言って聞かせるような形で。

 彼らの行く末の不幸と苦しみを予言し断定する口ぶりで何度も何度も。

 

水木しげるさんの漫画で『鬼太郎の地獄めぐり』という本を持っているけれど、具体的に絵で示された地獄より、市井の人の口から出る漠然とした呪いの言葉は恐ろしかった。いや、それよりも、なんだか痛々しく切なかった。

 

以来、とくに誰に話すでもなく今日まで過ごして来たものの、図書館で「陰陽師」関係の本やら、古代エジプトの『死者の書』についての本を借りたりしていることからすると、知らず知らず、自分にもあの日の不穏な空気が降り掛かったままなのかもしれません。

ふとした拍子に何度もその場面を反芻しては、どうしてそんな言葉を彼が口にしなければならなかったのか、と考えてしまう。

あれは、短気なおじさんがキレていたんだろうな、と簡単に割り切れないのは、その店で、以前親切にされた記憶があるから。

そして何より、呪いの言葉をかけられた人より店主の顔の方が悲しそうだったから、かもしれません。

 

店主の視線の先にいた二人の男性は、路上駐車を見つけてシールを貼る、監視員の人達のようでした(ユニフォームから判断)。

想像でしかないけれど、もしかしたら、買い物するために、ほんの一時、店の前に駐車したお客さんの車にシールが貼られたのかもしれない。店主は客のために監視員に説明したが、受け入れられず、さらに抗議しても無視された末のことだったのかもしれない。

店主の背後には中年女性がいて、戸惑うようにたたずんでいた。店主は、客である彼女のために、慰める気持ちが転じてそのような言葉を吐いていたのかもしれない。

本当に呪うつもりならば、相手に向かって「○○してしまえ!」というような言い方をすると思うんだけれども、実際には彼は「絶対○○…だよね」「絶対、彼らは△△できないよ」というような、女性に話しかける形を取ったところに、呪いをかけることを避けたようにも見えるのです(彼ら、というソフトな言葉ではなかったですが)。

 

駐車監視員の方は、おそらく他の場所でも文句を言われたり捨て台詞を投げつけられたりしているだろうけれど、それにしても、普段まさか、そこまでは言われないはずの言葉を投げかけられてどう思っただろう。

伏し目がちに、口を一文字にした二人は去ってゆきました。

彼らは、そのような言葉を投げかけられて、どこで御祓をするのだろう。塩をその身に振りかけて帰宅することはあるのか、それとも立ち呑み屋さんで一杯やって、忘れようとするのか。家族や友人に、その空気を振りまかないようにどのように過ごすのだろうか…

 ただ、自分なら、と想像すると、呪いの言葉は、かけられた者より、口にした者の方が打撃を受けるような気がしました。

どんな事情があるにせよ、どちらも傷ついている。そんな時、どうすればいいのか。

 

たかが通行人のわたしが、偶然耳にしただけで、呪いの言葉を具体的に書くことも人に言うこともできず忘れられないのに、言った本人と言われた側は、どうやってこれを 解消するのであろうか。

宙ぶらりんな思いのまま、最近借りて来た、夢枕獏 編『陰陽夜話』の、小松和彦さんとの対談を読んでいると、小松さんが仰るには「長く続いている都市には、必ずどこかに人間のドロドロした思いを吸収してくれる装置があると思」うとして、例に京都・貴船神社での丑の刻参りや、他の女と縁を切って男に自分の所へ戻って来て欲しいとお参りする女性の話をあげると、夢枕さんが「普通は戻って来ないですけどね、そんなことをしても」と返すんですが、そこで再び小松さん。

「そういう切々とした思いを語る、或いはそういうものを表現する場所、捨てに行く場所が必要なんですね」と。

何も男女の問題に限らず、負の感情を埋める闇の場所が、人には必要だというわけです。一例として、筑波学園都市(60年代に建設が始まった研究学園都市。整備されてきれいな街)で一時、自殺者が多かった話を出しておられたのは、なるほど、確かに。

きれいで上品な店だけじゃなくて、上司の悪口を言いながらお酒を飲める赤ちょうちんみたいな場所って、大事なんですね。

このような感情の問題は、能の「鉄輪」をモチーフにした、近藤ようこさんの「生成」(『春来る鬼』に収録)や、山岸凉子さんの『黒鳥−ブラックスワン』などの漫画でもモチーフになっているので、昔も今も、人が生きている限りは消えないものなんですね。

ホッとしたところで、なんだか、また中島らもさんの、『ガダラの豚』を読みたくなってきたのです。そう、呪いをここでひとつ、エンターティメントとして味わうことで気分を変えようと。

 

 ところで、わたしもかつて、面と向かって呪いの言葉をかけられたことが。

小学生高学年くらいだったか、商店街で母と買い物中、青果店のおかみさんに指さされ、「そんなに背が高かったら、将来お嫁に行けないわ」と。

近所にスーパーが出来て、その青果店界隈が寂れて行った時に、わたしはほのかに思った。

買いものに行っても常連さんと喋っていて、いるのに気づいているのにあそこでは立ったまま長いこと待たされた。やっと買い物できると思ったら、おかみさんが口にするのは「背が高すぎて嫁に行けない」だの「声がちいさい、元気がない」だのだった。

多くの人がスーパーに行きたいと思うのはしょうがないじゃない…と。

わたしも、ひそかに呪い返してしまっていたのです。

呪いをかけたものには、自分にも何かかえって来る気がする。

その証拠に、青果店のおかみさんの呪いは今も解けていません。

あ、ホラーではなく、ここ、(笑)で。

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